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5月13日(金) [矛盾について(その283)]

 何はともあれ、芹沢氏がどのような意味で「する自己」と「ある自己」ということばを使っているのかを確認しておきたいと思います。
 これまで「引きこもり」という現象は「社会の中でさまざまな活動をすることから引きこもること」と捉えられていたのですが、それは表面上のことで、実はそのような社会的な活動を「する自己」を支えている「ある自己」が深く傷つき、それを修復し癒すために社会から撤退することだと捉えるのです。
 この二重の自己は、「ある自己」が基底にあり、その上に「する自己」がのっているという構造ですから、「する自己」が十全に機能を発揮するためには、「ある自己」が安定的でなければなりません。ですから「ある自己」が何らかの事情(例えばいじめ)で傷つきますと、「する自己」はもう機能不全に陥りますから、まず傷ついた「ある自己」を癒さざるを得ないのです。もし何か失敗でもして「する自己」が傷ついただけでしたら、社会から撤退する必要はありません。「ある自己」に依拠しながら、傷ついた「する自己」を修復すればいいのです。
 アウトラインだけですが、これが芹沢氏の言う「する自己」と「ある自己」です。ぼくがこれまで使ってきた「する」と「いる」によく似ています。よく似ていますが、でもどこか違う、しかも一番大事なところで決定的に違う、という感じがします。どこがどう違うのか、それをこれから検討したいと思います。
 まず芹沢氏は(ウィニコットはと言った方がいいのでしょうか)「二重の自己」という捉え方をしています。自己は単層ではなく、二層になっていて、基層に「ある自己」が、その上に「する自己」がのっていると。ちょうどウィニコットの師であるフロイトが自己の基層として無意識層の「イド」があり、その上に意識層の「エゴ」がのっていると捉えたのと同じです。

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