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5月15日(日) [矛盾について(その285)]

 「する」ことの本質は「しようと思う」ことが先行するという点にあります。どんなことも「しようと思う」ことがなければ、それを「する」ことはありません。逆に言えば、何かをしたときには、必ずそれをしようと思っています。さて、ぼくが「自分の部屋にいる」ことには、「自分の部屋にいようと思う」ことが先行しています。自分の部屋にいようと思わなければ、自分の部屋にいることはありません、居間にでも、台所にでもいることでしょう。やはりどこかある特定の場所に「いる」ことは「する」ことに含まれると言えそうです。
 一方、この世に「いる」はどうか。
 「この世」と言いますと「あの世」はどうかとなりますから、あまりいいことばではないかもしれません。ぼくは「あの世」については、釈迦にならって「無記」の立場をとります。あるともないとも言えないとの立場です。ここで「この世」と言っているのは、どこか特定の場所ではなく、それらをすべて包み込むところという意味で、もし「あの世」があるなら、そこも含むすべての世界と理解してください。
 さて、この世に「いる」ことは、あらゆる「する」ことを支えると同時に、どこか特定の場所に「いる」ことをも支えていて、この世に「いる」ことがなければ、どこかに「いる」ことはできません。この世に「いる」ことは、どこかに「いる」ことを含め、すべての「する」ことを可能にする条件なのです。そして、この「いる」は、自分が「いる」のではありません。自分が「いる」のだとしますと、必ずどこかに「いる」はずですから、それはもう「する」ことに変わっています。
 しかし、自分が「いる」のでないとすれば、だれが「いる」のか。
 
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