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5月16日(月) [矛盾について(その286)]

 この世に「いる」のが自分ではないとすれば、誰が「いる」のかと問いました。「いる」だけがあって、「誰が」がないのはあまりにシュールです。
 何かを「する」ときは、まず「自分」がいて、しかる後に何かを「する」のですが、しかしこの世に「いる」ときは、まずこの世に「いる」があって、しかる後にそれが「自分」であるのです。「する」ときは自分が先んじますが、「いる」ときは自分は遅れをとるのです。そして自分が遅れて顔を出したときには、「いる」はもう「する」に変身しています。 
 井筒俊彦という哲学者はこんな印象的なことばを残しています、「花が存在するのではない、存在が花するのだ」と。まず一輪の花があって、しかる後にそれが「存在する」のではなく、まず「存在する」があって、しかる後にそれが一輪の花であるのです。
 これまで述べてきたことからして、「する自己」とは言えても「いる自己」とは言えないという結論になります。
 いや、「いる自己」と言っても一向に差し支えありませんが、それは実は「する自己」の一種ということです。としますと、芹沢説の「する自己」と「ある自己」は、何か原理的な区別ではなく(どちらも「する自己」なのですから)、せいぜい表層と深層の区別にすぎなくなります。
 彼は「する自己」が痛めつけられたぐらいでは引きこもりに至らず、「ある自己」が傷ついて社会から撤退することになるのだと言うのですが、それも皮膚や筋肉が切られた場合と、内臓まで達する傷との違いにすぎないとも言えます。

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