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5月19日(木) [矛盾について(その289)]

 芹沢氏は「ある自己」が傷つくことについて、こんなふうに言います、「“ある自己”を成り立たせていた内なる“環境と他者”への信頼」が損傷し、崩壊するのだと。要するに、誰か特別な人に対する信頼があるからこそ、ぼくらは背筋を伸ばして大地に立つことができるのだということです。
 ウィニコットの印象的なことばとして「子どもは誰かと一緒のとき、一人になれる」が引かれていますが、これは母親が近くで見守ってくれていることが分かっているから、子どもは一人で遊ぶことができるということです。
 芹沢氏は、引きこもってしまった会社員は「職場の人間関係において、このような信頼の対象である“一緒のだれか”を失ってしまった」のだと言います。その結果として「ある自己」が深く傷ついてしまったと。
 職場で信頼していた誰かから裏切られるのは身を切られるように辛い経験だとは思いますが、それで一切の人間関係から撤退してしまうだろうかという疑いを拭い去ることはできません。そこがダメなら、他もあるじゃないか、何も家族や友人からも引きこもることはないじゃないかと。
 やはり問題の根っ子は「ある自己」という捉え方にあるようです。何度も言いますように、「ある自己」とは「する自己」の一種ですから、両者はいわば地続きでそこに質的な違いを見いだすことはできません。それぞれが負う傷も深いか浅いかの違いにすぎないと言わざるを得ないのです。
 そこで、ぼくの「する」と「いる」に戻り、芹沢=ウィニコット説とどこが違うのかをもう一度検討したいと思います。

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