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5月20日(金) [矛盾について(その290)]

 ぼくの言う「いる」は、「どこかにいる」ではなく「この世にいる」です。どこにいるのかに関わらず、とにかく「生きている」ことです。
 「どこかにいる」ことが傷つきますと、別のところで再起を図ることもできるでしょう。しかし「この世にいる」ことが傷つきますと、もうどこにも居場所がありません。別の職場に移ることはもちろん、家族や友人との人間関係にも居場所を見いだせなくなるのですから、これこそ引きこもりをうまく説明してくれるように思えます。
 ただ問題は「この世にいる」ことが傷つくとはどういうことかということです。「どこかにいる」ことが傷つくのはイメージしやすい。例えばシカトのように、そこにいることが拒絶されると考えればいいのです。しかし「この世にいる」ことが傷つくとはどういうことか。
 ここで確認しておかなければならないのは、「この世にいる」ことは「知る」ことではなく「感じる」ことだという点です。
 「どこかにいる」ことは「知る」ことで、これはいつでもはっきり意識していなければなりません。これが分からなくなるともう徘徊老人です。しかし「この世にいる」ことは、それを感じてはじめて姿を現します。そして「この世にいる」ことは、それを自分で感じようとして感じられるものではありません。
 これは「感じる」ことの特徴で、「こちらから」出かけて行って感じるのではなく、「向こうから」やってきて否応なく感じさせられるのです。「この世にいる」ことも、どれほど感じたくても感じられませんが、ふと気がつくともうすでに感じているのです。

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