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矛盾について(その294) ブログトップ

5月24日(火) [矛盾について(その294)]

 ここでもう一度ぼくの言う「あなた」と芹沢=ウィニコット説の「他者」とを対比してみたいと思います。
 前に「あなた」は特定できないのに対して、「他者」は特定の誰かだと言いましたが、ここで、「あなた」はいつでもどこでもいるのに対して、「他者」はいなくなることがあるという点をつけ加えなければなりません。まず芹沢氏の「他者」ですが、自分の中にいつも「一緒の誰か」がいるから、ぼくらは安心して生きていけるのでした。ところが、思いがけなくその「一緒の誰か」がいなくなってしまう。例えば職場で、あの人がいるから、あの人のためなら、と信頼していた同僚が、その信頼を裏切るような振る舞いをする(例えばいじめの加害者となる)。これは目の前が真っ暗になるような出来事でしょう。かけがえのない「一緒の誰か」が急にいなくなってしまうのですから。芹沢=ウィニコット説では、これが引きこもりの原因だと考えられているのです。
 それに対して「あなた」はいつでもどこでもいます。太陽がなくなることはあっても「あなた」がいなくなることはありません。なぜなら、ぼくらが何を「する」にせよ、「いる」ことが必要であり、「いる」ことは「あなた」によって支えられているからです。このことはしかし「する」ことが何の支障もなく回っているときには意識にのぼりません。ぼくらが生きていくのに空気は不可欠なのに、普段は空気の存在を意識していません。空気の存在を意識するのは、高い山に登るなどして、呼吸が苦しくなったときです、「あれ、空気が薄いぞ」と。同じように、「いる」ことも普段は意識しません(念のために再度言いますが、「どこかにいる」ことは常に意識しています。それを意識しなくなるといわゆる「ヨイヨイ」です)。ところが信頼していた友人に裏切られるなどという「思わぬ躓き」に出会うとき、「いる」ことが急に意識されるのです。
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