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矛盾について(その296) ブログトップ

5月26日(木) [矛盾について(その296)]

 こんな反論が出されるでしょう、「きみが“あなた”を感じたことがあるからといって、誰でも“あなた”を感じるはずだなどとどうして言えるのか」と。
 しかし、何かを「感じる」とはそういうことではないでしょうか。つまり、ぼくが何かを感じたら、他の誰もが同じように感じるはずではないでしょうか。これは前に検討したことですが、改めて考えておきましょう。
 「知る」ことでしたら、ぼくが何かを知ったから、他の誰もが同じように知るはずだとは言えません。それは不遜というものでしょう。ぼくが間違って知ることはいくらでもあるからです。あるいはぼくが正しくても、他の人が間違うこともあります。ですから、ぼくが知ることと、他の人たちの知ることが一致する保障はどこにもありません。
 しかし普通は逆だと思われています、「知る」ことは一致しても、「感じる」ことは一致しないと。「知る」ことは客観的で、「感じる」ことは主観的だと言われるのはそういうことです。
 ここはしかしよくよく考えてみなければなりません。確かに「知る」ことが人によってまちまちなのは困ったことです。一致しなければいけないでしょう。でも実際は一致しない。どうしてかと言いますと、何かを「知る」というのは、こちらから何かに向かっていくことだからです。どこまで行っても、こちらと何かの間には隙間が残りますから、人によって見解が異なることになるのです。
 一方「感じる」というのは、向こうから何かがやってきて、思いがけずそれに飲み込まれることです。こちらがどうこうするまでもなく、気がついたら何かに襲われているのです。そのとき、何かとぼくとの間に隙間はありません。ぼくは何かにすっぽり覆われているのですから。そして、もしそこに他の誰かがいたら、ぼくと同じようにすっぽり覆われていることでしょう。ですから不一致はありません。

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