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矛盾について(その297) ブログトップ

5月27日(金) [矛盾について(その297)]

 よく引き合いに出すことですが、もらい泣きという現象があります。誰かが悲しんでいる場面に遭遇したとき、その人が全く見知らぬ人であっても、思わず涙ぐんでしまうことがあります。それは、その人が包み込まれている悲しみの中に自分も入ってしまうということでしょう。その人の中に悲しみがあるのではなく、悲しみの中にその人がいるのです。だからこそ自分も同じ悲しみの中に入ってしまう。
 「感じる」のは、こちらから何かをキャッチするのではなく、向こうから何かにキャッチされることだから、ぼくが感じたとすると、他の誰もが感じるはず、と述べてきましたが、ここでさらに疑問が出るかもしれません。何かの事情でぼくがキャッチされることになっており、誰もがキャッチされることはないのかもしれないと。誰彼かまわずキャッチされるのではなく、キャッチされる人とされない人がいるのではないかと。
 一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)では預言者と呼ばれる人たちが登場しますが、彼らは神のメッセージを受け取る特別な人のことです。神のメッセージは誰彼かまわず届けられるのではなく、特定の人を選んで届けられるのです。特定の存在(神)から特定の人(アブラハム)へ。
 これはしかし、アブラハムは神にキャッチされていると同時に、アブラハム自身が神をキャッチしているのではないでしょうか。神がアブラハムを選んでメッセージを届けているということは、アブラハムには特別な資格があるということであり、アブラハムはその資格でメッセージを受け取っているのです。
 これは、J.デリダの言い回しを借りれば、贈与ではなく交換です。特定の誰かから特定の誰かにものが贈られるとき、それは純粋の贈与ではなく交換になります。ある方がぼくにお返しなんかいらないよと言って贈り物をしてくださったら、これを純粋の贈与と言っていいのでしょうか。いいえ、決して。ぼくはその方に負債を感じざるを得ません。何らかのかたちでお返しをしなければと思ってしまうのです。これはやはり交換でしょう。

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