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5月28日(土) [矛盾について(その298)]

 純粋の贈与は不特定の誰かから不特定の誰かに贈られる場合です。
 昨年のクリスマスの頃、タイガーマスク現象が話題になりました。タイガーマスクの名で(つまり匿名で)ランドセルが恵まれない子どもたちに贈られたのですが、これは純粋の贈与と言っていいのでしょうか。一見そう思えますが、匿名というのは不特定の誰かとは違います。間違いなく特定の誰かが贈っているのですが、ただそれが誰であるかが分からないだけです。ですからランドセルを贈られた子どもは、その分からない人に負債を感じるでしょう。誰か分からないが、何らかのかたちでこのお返しをしたいと思うことでしょう。
 では純粋の贈与などというのは存在しないのでしょうか。
 何かを「感じる」ことこそ純粋の贈与です。ぼくは何かの資格があって、あることを感じるのではありません。もしそうでしたら、何かがぼくをキャッチしているのではなく、ぼくが何かをキャッチしているのです。それはもはや「感じる」ことではありません、「知る」ことです。ぼくが何かを感じるとき、ぼくはただただ何かにキャッチされています。そしてぼくがキャッチされている以上、他の誰もがキャッチされるはずです。ぼくをキャッチしたのは不特定の「あなた」ですし、ぼくも不特定の誰かとしてキャッチされたのですから。
 かくして芹沢=ウィニコット説の「他者」と、ぼくの「あなた」との違いが鮮明になりました。前者は特定の誰かですが、後者は不特定の誰かです。そして前者はいなくなることがありますが、後者はいつでもどこでもいます。芹沢=ウィニコット説によりますと、かけがえのない「一緒の誰か」がいなくなってしまうことで引きこもりに入ることになります。しかし「あなた」がいなくなることはありません。すぐ隣にいる「あなた」に気づかないだけです。でも気づきませんと、ちょっとした躓きがもとで、どんどん深みに入ってしまうことになります。
 ここから引きこもりに対する「支援」の問題に入っていくことができます。

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