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6月1日(水) [矛盾について(その302)]

 芹沢氏は「何はともあれ引きこもっているという状態像の肯定から始めよう」と言いますが、これはしかしとても難しい。ぼくらは生徒の問題行動にしろ、不登校にしろ、引きこもりにしろ、それに直面すると「あゝ大変なことになった」と動揺します。そして何とかしなければと焦ります。引きこもりの子どもを持つ親としますと、「肯定から始めよう」などと言われたら、当事者じゃないからそんな悠長なことを言っていられるんだと反発したくなるでしょう。
 アイ・メンタルスクールに息子を預けた親御さんも何とかしなくてはの焦りがあったに違いありません。そんなとき怖いのが世間体です。世間の眼差しに追いつめられるのです。ぼくも教師時代のことを思い起こしてみますと、担任クラスの生徒が問題行動を起こしたとき、気になるのが同僚教師たちの眼差しです。どうするのかを見ている同僚たちの視線が重荷になるのです。
 それでも目の前の相手を肯定して、じっと傍に寄り添う。それがどれほどしんどくても、そこからしかスタートできないという点では、ぼくも芹沢氏と全く同意見です。「する」ことを留保して、じっと傍に「いる」。そのことを彼はこう言います、「それは〈いる〉ということの力である。いること、居続けることのもたらす信頼性である。そのような信頼性があってはじめて支援は支援としてその実質を満たす条件が整うのである」と。
 もう一度言いますが、じっと傍に居続けることの大切さには全面的に同意します。でも、このように「する」と「いる」を対比し、「いる」ことの力と言われますと、何かが微妙に違うなと思わざるを得ません。

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