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6月4日(土) [矛盾について(その305)]

(戻ります。)
 ここで「一緒のだれか」と「あなた」との違いが再び重要な意味を帯びてきます。つまり、周りにいる人は「一緒のだれか」になることはできても「あなた」になることはできないということです。芹沢氏はそうと明言しませんが、傍にじっと寄り添うということは、その人にとっての「一緒のだれか」になるということです。
 「他者への信頼」という、生きる上での心棒が折れてしまった人の傍に寄り添うのは、もう一度その心棒を再建するためであり、つまりは「一緒のだれか」になることです。そのための努力はほんとうに尊いことだと思います。でもそれを「あなた」になることだと勘違いしてはいけません。
 「一緒のだれか」になることはできても、「あなた」になることは逆立ちしてもできないのです。
 思わぬ躓きで深く傷ついても、ふと「あなた」に出あうことができさえすれば、多少の時間はかかっても、そのうち傷を癒すことができます。問題は「あなた」に出あえない場合で、いつまでも傷口から血が流れ続けます。そんなとき誰かがその人の「あなた」になってあげようとしても、それはかないません。
 「あなた」には思いがけず遇うことができるだけです。本人がいくら会いたいと思っても会うことはできませんし(「遇う」とは「思いがけずばったり遇う」で、「会う」は「会いたいと思って会う」ことです)、誰かが「あなた」になってあげたいと思ってもなれるものではありません。こればっかりは何ともならないのです。

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