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6月16日(木) [矛盾について(その317)]

 「この世にいる」ことは「この世にいていいのか」と否定的に意識されます。では、どんなときに「この世にいていいのか」という鉛のような問いが生まれるかについては、前に述べたことがありますので、ここではひと言だけいっておきますと、例えば九死に一生を得て戦地から戻ってきたとき、あるいは大津波をくぐり抜けて奇跡的に生き残ったとき、ひとはときに「あの人たちは死んだのに、自分は生き残ってしまった」と己を責めます。これが「この世にいる」ことの否定的な意識です。
 「この世にいていいのか」という問いは自分の中から出てくるのではなく、どこかからやってきます。「この世にいていいのか」という問いは、自分から問うのではありません。誰かに問われるのです。
 「どこかにいる」ことなら、「ここにいていいのか」と問うのは自分です。何か場違いなところにいるとき「このままここにいていいのだろうか」と思いますが、これは誰かに問われているのではなく、自分で問うているのです。どうしようか迷って、結局いつづけるか、その場を離れるか、どちらかに決めます。
 一方「この世にいていいのか」という問いは、自分が問うているのではありません。誰かから問われているのです。
 自分が問うているか、誰かから問われているかは、それが「思いがけず」かどうかで見分けることができます。自分が問う場合は、「思いがけず」問うことはありません、問おうと思って問いますが、誰かから問われる場合は、「思いがけず」問われます。問われるのを予想している場合もあるでしょうが、それは誰かから問われる前に、すでに自分で問うているのです。

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