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6月23日(木) [矛盾について(その324)]

 「機の深信」の闇の中に取り残された人は、いまだ「法の深信」という「気づき」がありませんから、いつまでもこの状態のままではないだろうかという不安に苛まれます。
 でも、少なくとも善導には「機の深信」だけではなく「法の深信」がおとづれていたからこそ、「二種深信」について説くことができたのです。その立場から言いますと、「機の深信」は「法の深信」のための必要条件で、「機の深信」がおとづれたら必ず「法の深信」のおとづれがあるはずです。「機の深信」の闇の中に放り出されたままということはありません、「機の深信」の闇は「法の深信」の光のためにあるのですから。
 いまだ「気づき」がない人とすでに「気づき」がおとづれた人との間の溝は何ともしようがありません。ただこれだけは言えます、すでに「気づき」がおとづれた人がいるからには、いまだ「気づき」がない人も、いつか必ず「気づき」がおとづれる日がくると。なぜなら、その「気づき」が正真正銘の「気づき」であるなら、こちらがどのような状況であるかに関係なく、同じようにおとづれるはずだからです。もしそこに少しでも「知る」要素が入っていたら、人によって差が生じるのはやむを得ませんが、こちらから「知る」のではなく、向こうからやってくる「気づき」でしたら、それは太陽の光のように文字通り平等にもたらされるはずです。
 もう一度言いますが、「法の深信」は「機の深信」を必要とします。ですから、すべての人に「法の深信」という「気づき」がもたらされるはずだというものの、「機の深信」を通っていない人には届きません。「そのまま生きていていいのか」という問いの前に吊るされたことのない人には「そのまま生きていていい」というおとづれは馬の耳に念仏です。ただ、「機の深信」も「気づき」ですから、「法の深信」のためには「機の深信」が必要だからといって、それを手に入れようと努力しても無駄です。これまた思いがけず向こうからやってくるのです。
 まず「機の深信」が思いがけずやってきて、その上で「法の深信」がおとづれる。両方揃ってはじめて円環が閉じるのです。

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