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6月24日(金) [矛盾について(その325)]

 善導は「機の深信」は必ず「法の深信」と対になっていると教えてくれました。「機の深信」があれば、遅かれ早かれ「法の深信」のおとづれがあると。これはしかし一種のドグマと言わなければなりません。何の根拠があってそんなことが言えるのかという声が出るのは必然です。ましてや善導の場合はそこに阿弥陀仏の四十八願という浄土教のドグマが重なりますから、「それはあなたの信仰であって、あなたがそれを信じるのは自由ですが、わたしはそんな根拠のないことを受け入れることはできません」という反応が返ってくるに違いありません。
 何の根拠があって、そんなことが言えるのか。
 善導としては根拠と言われても困るでしょう。根拠というのは何かを「知る」ときに、どうしてそれが正しいか(事実と合致しているか)を論証するのに必要とされるのであって、何かを「感じる」ときは根拠も何もありません。嬉しいと喜んでいる人に「どういう根拠で嬉しいのか」と尋ねるのは無理があるでしょう。嬉しさの原因(嬉しさをもたらしたことがら)については説明できるでしょうが、それが何故嬉しいかと言われても答えに窮します。「嬉しいから嬉しい」としか言いようがありません。
 「見る(知る)」モードと「感じる」モード。
 善導は「感じる」モードで発言しているのに、「知る」モードにいる人から「何の根拠で」と問われているのです。「感じる」モードにいる人にとっては根拠ということばなんて不要ですが、「知る」モードにいる人にとっては根拠こそ要となることばです。このすれ違いが問題の根っ子にあるのです。どうすればいいのか。どうしようもありません。『歎異抄』にその辺りの機微に触れたことばが記録されています。

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