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矛盾について(その326) ブログトップ

6月25日(土) [矛盾について(その326)]

 『歎異抄』第2章です。
 「みなさんはるばる十余か国の国境を越えて、命がけでわたしを訪ねてくださったのは、ひとえに極楽往生の道を問いただそうと思ってのことでしょう。しかし、念仏より他に往生の道を知っているとか、また教えが説かれた法文などを知っているのではないだろうかとお思いでしたら、それはとんでもない間違いです。もしそのように念仏以外に何か特別な教えがあるのじゃないかと思われるのでしたら、興福寺や延暦寺にも、すぐれた学者がたくさんおられますから、その方々に会われて、往生の要点をしっかり聞かれたらよろしい。わたし親鸞におきましては、ただ念仏して阿弥陀仏にお救いいただけばよい、と法然上人から教えられ、それを信じる以外に取り立てて何もありません。」
 『歎異抄』の中でどこが一番かと問われたら、迷うことなくここを選びます。ここには緊迫したムードが漂っています。こちらに常陸の国から「身命をかへりみず」に上京してきた面々がいます。そしてそれに対座して真剣な顔つきの親鸞がいます。久しぶりに対面できた喜びにもまして、何とかして腹の中にある思いを洗いざらい聞いてもらいたいという弟子たちと、それを全身で受け止めようとしている親鸞との間の凛とした緊張が感じられます。
 弟子たちは何を聞きたかったのでしょう。それとは明記されていませんが「念仏するだけで往生できるというのはほんとうでしょうか。そんなふうに言える根拠はどこにあるのでしょうか」ということであるのは疑いありません。彼らは「根拠」を知りたいのです。親鸞はその根拠を知っているに違いない、知っているが何かの事情で(難しくてわれらには理解できないだろうと慮ってか)言うのを抑えているのだろう、しかしわれらはこの際是非それを聞きたい、ということだと思います。

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