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6月29日(水) [矛盾について(その330)]

 親鸞が「たとひ法然上人にすかされまひらせて」も「さらに後悔すべからずさふらふ」というのは、法然上人の言われることに自分を賭けたから、たとえ騙されてもちっとも後悔しないということでしょうか。それが「よきひとのおほせをかぶりて、信ずる」ことでしたら、ぼくには到底そんな途方もないことはできません。「よきひとのおほせ」を信ずるには、それなりの根拠が必要です。何の根拠もなく、自分のすべてを賭けるなんて芸当はぼくにはできません。
 親鸞が「よきひとのおほせ」を信ずるというのは、少し違うのではないかと思うのです。
 「よきひとのおほせ」が正しいことがどうかを知ろうとすることではないのはその通りですが、だからと言って闇雲にすべてをそれに賭けるというのではなく、それをこころで感じることだと思うのです。「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」という「おほせ」を知ろうとするのではなく、こころで感じる。
 しかし感じることは知ることと違い、感じようとしても感じられるものではありません。思いがけずふと感じるのです。親鸞の書いたものを読んでいますと、信ずることを言うのにしばしば「遇う」ということばが使われています。これは思いがけずふと遇うことで、会おうとして会うのとは違います。また「聞く」ということばも重要です。これも聴こうとして聴くのではなく、思いがけずふと聞こえるのです。
 『教行信証』の冒頭部分にこうあります、「遇ひがたくしていま遇ふことをえたり。聞きがたくしてすでに聞くことをえたり」と。

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