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6月30日(木) [矛盾について(その331)]

 「遇ひがたくしていま遇ふことをえたり。聞きがたくしてすでに聞くことをえたり」。ここで親鸞は、わたしは思いがけず遇うことができた、ふと聞くことができた、何とありがたいことかと述懐しています。何に遇うことができたか、何を聞くことができたかといいますと、「よきひとのおほせ」です。「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」の声です。
 この「遇う」も「聞く」も「信じる」の言いかえであることは明らかですが、それをさらに「感じる」と言いかえることができます。思いがけずふと感じることができた、何とありがたいことよ、と。思いがけずふと感じただけですから、そこに何の根拠もありません。ですから「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」などとどうして言えるのかと問われても、「そう感じるから感じる」としか言えません。
 なおも「どうして」と追及されたとき、「たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」ということばが親鸞の口から漏れ出たのです。これは「わたしはよきひとのおほせにすべてを賭けましたから、たとえそれが地獄行きだとしても後悔しません」ということではなく、「わたしはよきひとのおほせをこころ深く感じそこに喜びを感じているのですから、たとえそれが地獄行きでも一向にかまいません」ということです。
 「よきひとのおほせ」にすべてを賭ける人は、「よきひとのおほせ」を前に見据えて、そこに向かって必死のダイビングを試みるのです。それに対して「よきひおとのおほせ」をこころに深く感じている人は、もうすでに「よきひとのおほせ」に喜びを感じているのです。「ききがたくしてすでにきくことをえた」のです、それ以上何がいるというのでしょうか。

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