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7月1日(金) [矛盾について(その332)]

 「ききがたくしてすでにきくことをえたり」と、腹の底から喜びが湧き上がってきたのですから、それ以上何がいるでしょう。
 ある集まりでこんな趣旨の話をしましたら、会場から質問が出ました、「よきひとのおほせと思っていたものが実は悪魔の囁きであったとしたらどうか」と。天に踊り地に躍るほどの喜びがあるにしても、それは仏の呼び声ではなく悪魔の囁きかもしれないではないかというのです。ヒトラーの演説に陶酔して、こんな喜びを与えてくれるなら、騙されてもいいからついて行こうと思うとしたら…。
 「感じる」ことの危うさ。でも「感じる」ことの中には、それがどこからやってくるかということも含まれているのではないでしょうか。それが仏からくるのか悪魔からくるのかを含めて感じていると思うのです。「感じる」ことは決して盲目ではありません。
 さて、こんなふうに「信じる」ことは「感じる」ことだとしますと、「あなたがそう信じるのは自由ですが、わたしはそんなことを信じることができません」という声にどう応えればいいのかについて大事な論点が明らかになります。
 そもそも宗教には布教がつきものです。布教をしない宗教はあるでしょうか。釈迦は菩提樹の下で悟りの境地に達したあと、これを他の人に伝えるのは難しいから自分の胸の内に収めておこうと思ったそうです。しかし釈迦の晴れ晴れとした表情を見た修行者仲間たちから、是非ともこころの内を語ってくれと懇請され、ようやく口を開いたと伝えられています。このエピソードはいろいろなことを考えさせてくれますが、ここでは「思いを伝える」ということについて考えたいと思います。

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