SSブログ
矛盾について(その334) ブログトップ

7月3日(日) [矛盾について(その334)]

 こころというものは本質的にオープンにできているのではないでしょうか。ぼくらは何かを思いつきますと、それを誰か身近にいる人に聞いてもらいたくて仕方がなくなります。子どもはそれが特にはっきりしていて、自分のこころに生まれた思いをそのままにしておくことはできません。「ねえ、お母さん、聞いて、聞いて」と耳を向けてもらえるまで言い続けます。こんなふうに「思いを伝えたい」のは一般的に言えることだとしますと、それが宗教に関わる思いである場合はとりわけそうだと言わなければなりません。ことは救いに関係するのですから。
 ある教えを信じる人はそれで救われたと思っていますから、まだ信じていない人、まだ救われていない人にその教えを手渡そうとするのは当然でしょう。大乗仏教はそこを考え抜く中から登場してきました。自分が救われたいと思うとき、周りのみんなも一緒に救われることが不可欠で、自分だけが救われることはありえないということです。周りの誰かが救われていないのに、自分は救われているということがあるだろうかと問うのです。それを一番分かりやすく説いているのが『無量寿経』です。
 この経典は阿弥陀仏の願い(本願)を説くという一風変わった内容ですが、その願いはすべて「わたしは何々をしたい。もしこの願いが成就しないならばわたしは仏にならない」という形を取ります。なかでもその中心に位置する第十八の願いは「わたしは救いを求めるすべての衆生をわたしの国(浄土)に迎えたい。もしこの願いが成就しないならばわたしは仏にならない」というもので、要するに、みんなが救われるまではわたしも救われることがないということです。みんなが救われてはじめて自分も救われるという大乗の立場をこれほどはっきり表明したものはないでしょう。

矛盾について(その334) ブログトップ