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7月7日(木) [矛盾について(その338)]

 信仰は個々人の自由でなければならないからこそ、公と私を厳しく分けなければなりません。もし公の場に特定の宗教が持ち込まれたら、それ以外の宗教の自由が脅かされます。したがって公共の世界に宗教を持ち込んではいけないとなるのですが、しかし、そんなふうに信仰を公と私とを分けることができるのでしょうか。着ている服のように、公の場と私的な場で着たり脱いだりすることができるものでしょうか。イスラム教の信仰はモスクの中にとどめ、モスクから公共の場に移ったら信仰を外に出さないなどという芸当ができるものでしょうか。たとえできるとしても、それは果たして本物の信仰と言えるか。
 キリスト教はそれをしてきたのだからイスラム教も従わなければならないのでしょうか。しかし、もしキリスト教がそれに成功してきたとしますと、キリスト教にはもはや宗教としての生命力がなくなっているのではないか。一方、こう考えることができるかもしれません、信仰とは内に秘められたものだから、外的な行為を制限されても支障はないと。十字を切るといった行為を控えても、キリスト教徒でなくなるわけではありません。同様に、ヴェールをかぶるのを控えたからといって、ムスリムでなくなるわけではないのだから、学校内でヴェールを取ることを強いられても問題ないと。
 しかしそれでも疑問が残ります。信仰を、もっと一般的には思想を内と外に分けることができるのかと。イエスをキリストと信じることと十字を切ることは切り離せないのではないか。アッラーを信じることとヴェールをかぶることも同様ではないか。あるいは弥陀の本願を信じることと念仏することも一体不離ではないか。そうだとしますと、学校内でヴェールを取らされるのは信仰の自由の侵害です。
 信仰の自由とは一体何か、考えれば考えるほど難しい。

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