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矛盾について(その339) ブログトップ

7月8日(金) [矛盾について(その339)]

 いくつかの信仰が並立しているとき、それぞれの信仰を持つ自由は認められても、実際問題としてはそこにかなりシビアな軋轢が生まれます。どうしてかと言いますと、信仰の自由は布教の自由を含むからです。前に検討しましたように、自分がある教えを信じることは、それを周りに広めることと切り離すことはできません。
 それは先回、信仰を内と外に分けることはできないと言ったのとつながっていて、内に秘められた信仰という点だけを見ますと、それぞれの信仰が平和に共存することができそうですが、信仰はおのずから外に形として現れ、それが周りに対する勧誘という意味合いを持ってくるのです。かくして複数の信仰は対立せざるをえなくなります。
 いま信仰の対立を考えていますが、言うまでもなく世の中には学説の対立もありますし、政治的立場の対立もあります。ぼくらの言説には「事実の記述」と「意思の表明」と「感情の表出」の三種類がありました。もう一度そこに立ちかえることによって、信仰の対立のありようを探っていきたいと思います。
 まず「事実の記述」を巡る対立ですが、学説の対立はこれに当り、これは「知る」ことに関わります。典型的な学説の対立として邪馬台国論争がありますが、このような学術上の対立については学問の自由が認められ、どのような学説であれ、それを研究し発表する権利があります。ある学説を公にすることが誰かの利益を害するとしても、それに学術上の価値があれば堂々と発表することができるのです。「知る」ことは、そうした利害や好悪に左右されることなく、オープンに議論されることによって進展するとみんなが考えているということです。

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