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7月11日(月) [矛盾について(その342)]

 これまで述べてきましたことから、「感じる」ことが対立したとき、それだけとってみればそう深刻ではありませんが、それが「意思する」ことと結びついてくると厄介な問題となること。しかし、「感じる」ことと「意思する」ことをはっきり分けることによって、何ともならない感情の対立は脇におき、意思の対立を話し合いで解決しなければならないことが明らかになりました。もっとも実際問題としては、「感じる」ことと「意思する」ことがもう見境がつかなくほど密接に結びついていますから、冷静な話し合いがどんなに大変かは、国会の動きや国際政治の状況からも明らかです。
 さて信仰の対立です。親鸞の時代に遡りますと、伝統的な仏教の世界(聖道門と呼ばれます)に、これまでなかった斬新な仏教(浄土門です)が登場してきたのですから、そこに摩擦が生じない方がおかしいでしょう。しかし、これはどのような性質の摩擦でしょうか。仏教の世界に、これまでになかった新しい感じ方―弥陀の本願に救いの喜びを感じる―が登場してきただけですから、それだけを見ますとさほど深刻な対立になるとは思えません。
 しかし感じることはただそれだけに終らず、感じたことを周りに伝えることと連動しますから、そこで既成勢力とぶつかることになるのです。既成勢力としては、何かわけの分からない動きが起こってきたということで脅威を感じ、それを早いうちに排除しようとします。このように、「感じる」ことのレベルではなく「意思する」ことのレベルでいがみ合いが生まれることとなります。新興勢力はこのまま順調に伸びていきたいと思うのに対して、既成勢力は自分の地盤が奪われるのを恐れてその動きにストップをかけようとするのです。これはもう信仰の対立というよりも勢力争いに他なりません。

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