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7月12日(火) [矛盾について(その343)]

 信仰とは、それが信仰の名に値するものであるならば、これまでになかった新しい感じ方のことですから、そこに対立は起こりません。問題が起こるのは、それが組織上の争いとなるときです。新しい信仰を持つ人たちが集団として捉えられるようになり、それが既成の信仰を持つ人たちの集団を脅かすと捉えられたときです。そんなとき既成集団は新興集団の信仰に対して攻撃を加えてくるに違いありません、それは仏教の本道から逸れるものであると。こうして勢力争いが信仰上の争いのような外観をもってしまうのです。
 再度言います、信仰には本来争いはありません。そのあたりを『歎異抄』の著者唯円はこんなふうに説いています。
 「この頃、専修念仏の人と聖道門の人が、わが宗が優れていて、相手の宗は劣っていると言い争っていますが、そんな争いの中で法敵が生まれたり、相手の法を誹謗するようなことになります。これはしかしながら、自ら自分の法を誹謗しているのではないでしょうか。たとえ他の宗派がこぞって、念仏は甲斐性のない人のためで、その教えは程度が低く卑しいと言ったとしても、特に争わずに、『われらのような甲斐性のない凡夫、文字も知らないものが、信じれば助かると承って信じているのですから、確かに能力のある人には卑しいかもしれませんが、われらにとっては最上の法なのです。たとえ他の教えや修行は優れているとしましても、われらの力に余りますので、つとまりません。われも人もみんな迷いから逃れ出ることが諸仏の本意ですから、妨げないで下さい』と言って相手を憎まなければ、誰も危害を加えるようなことはないでしょう。」
 浄土門の人が聖道門の人に「わが宗こそ優れている」と言い争いをしているのは、自分が何をしているのか分かっているのでしょうか、と手厳しい。争うようなことではないと言うのです。われらはただ「信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じ」ているだけではありませんか。弥陀の本願に喜びを感じているだけですから、念仏などは「かひなきひとのためなり、その宗あさしいやし」と非難されようと、それに反論するべきではありません。「あなた方にとってはつまらないかもしれませんが、われらにはこれしかありませんから、どうぞ妨げられませんように」と言えばいいのです、と。実に行き届いたことばだと思います。

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