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7月16日(土) [矛盾について(その347)]

 相手に圧迫感を感じさせるかどうか、それはやはりその人がどんなふうに信じているかにかかっているように思います。ある人が自らの力で何かを信じることができるようになったと思い、それを他の人にも信じさせてあげようと思っている場合、つまり信じることが「わがもの」となっているとき、ぼくらはその人に威圧感を感じざるを得ません。
 それに対して、ある人は気がついたら何かを信じていた(感じていた)と思っており、誰でも思いがけず信じるようになるしかないと思っている場合、ぼくらはその人に特に威圧感を感じないのではないでしょうか。その人も自分が感じている喜びを他の人たちに手渡そうとしているのですが、それが押し付けがましくないのです。相手が同じように感じればもちろん嬉しいが、感じなければそれはそれで仕方がないと思っているからです。
 さて、もっとも威圧感を感じさせるのは、ある宗教が国家を背負って登場してくるときです。フランスのムスリムにとって「フランスはキリスト教の国である」という主張がどんな意味合いを持つかを考えてみれば、その威圧感が理解できるでしょう。もちろんフランスは人権宣言の国として、信仰の自由が認められ、政教分離の原則が貫かれていますから、そんな主張が認められるはずがありません。ムスリム女性に対するヴェールの禁止も、信仰の自由を守るためという理由から行なわれているのです。
 しかし、ときには隠れている本音がひょいと姿を現すことがあります。9・11直後のブッシュの発言はその典型的なものでしょう。彼はあのとき「われわれは十字軍(クルセイダーズ)である」と叫んだ。十字軍とは言うまでもなくイスラム勢力を征伐するキリスト教の軍勢です。これがアメリカ国内のムスリムたちにとってどれほど威嚇的であったことか。

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