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7月19日(火) [矛盾について(その350)]

 著者の日本の成り立ちについての認識、さらにはその文明論的な位置づけがすべて正しいとしましても、そこから天皇制を支持すべきであるという結論が出てくるわけではありません。同じ事実認識から正反対の価値判断が導かれることはザラにあるからです。言うまでもありませんが、事実認識と価値判断とは全く別ものです。
 これまでの日本の歴史の中で天皇制が果たしてきた役割をすべて承認した上で、そんな天皇制はいやだと感じたとしても何の不思議もありませんし、そのように感じたことを表明する自由を認めるのが民主主義です。ところが天皇制という宗教はそれを認めてくれません。日本人なら天皇制を信じるものであり、天皇制を信じないものは日本人にあらずとご託宣するのです。
民主主義と天皇制が相容れないのは明らかではないでしょうか。
 信仰の自由についてかなり長い道のりを歩いてきました。この辺りでそろそろまとめに入りましょう。親鸞は、関東の弟子たちが「厳しい迫害にあって困っているのですが、どうしたものでしょう」と問い合わせてくるのに対して、「そこで念仏を広めることができないなら、縁がなかったものと思ってその地を去りなさい」と答えました。また唯円は、聖道門の人たちから「念仏はかひなきひとのためなり、その宗あさしいやし」などと言われても、「わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はをとりなり」と争うべきではないと述べました。
 ここには信仰の自由の問題を考えるための大事なヒントがあると思うのです。信仰の自由とは、何かを信じ、それを表明すること、さらには周りにそれを広めること、こうしたことが自由に行なえることを意味します。そして、それはおのずと他の信仰を持つ人との間に摩擦を生むことになるのですが、そのときどう対応すべきか、これが考えなければならない課題でした。

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