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7月21日(木) [矛盾について(その352)]

 宗教と現実について、新たな角度から考え続けていこうと思います。
 3.11後の状況に、どんなことばが残されているか。多くの宗教者がことばを失い、しかし何かを語らなければと、さまざまな声をあげ始めています。山折哲夫氏もその一人です。
 山折氏の発言はこんなふうです、「『なぜあの人は死に、私は生きているのか』と問うと、無常という言葉が浮かんできます。先人は自然の猛威に頭(こうべ)を垂れ、耐えてきた。日本人の心のDNAとも呼べる無常の重さをかみしめています。残念なことですが、私たちの力ではみなさんの悲しみを取り除くことはできません。悲しみを完全に共有することはできないのです。でも、みなさんに寄り添うことはできる。悲しみを抱えたまま立ち直っていくことはできるのです。それは、みなさんと『無常』を受け止めていくことだと思います」。
 「なぜあの人は死に、私は生きているのか」という問いを前にして、無常ということばが浮かんでくると言われる山折氏の感覚はぼくには理解できません。「生き残ってしまいました」という被災者の悲痛な思いは到底「無常」ということばに置き換えることができるものではないと思うのです。「あの人が死に、あなたが生き残ったのは、世の無常というものです」と言われた人は、どんなふうに思うでしょう。「この人には私の悲しさは何も分かっていない」と思うだけではないでしょうか。
 では、被災した人から「なぜあの人は死に、私は生きているのか」と問われたとき、どう答えることができるのか。

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