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7月22日(金) [矛盾について(その353)]

 被災者の「なぜあの人は死に、私は生きているのか」という問いは、「こんな自分が生きていていいのか」という問いです。この問いが現われたときこそ宗教の真価が問われるときです。
 『歎異抄』第4章にこうあります。「慈悲というものに聖道門(自力の教え)と浄土門(他力の教え)の区別があります。聖道門の慈悲とは、人を憐れみ、悲しみ、育むことです。しかし、思うように助け遂げるのは本当に難しい。一方、浄土門の慈悲とは、念仏して、早く仏になって、仏の大慈悲心で、思うように生きとし生けるものを救うことです。この世で、どれほど可哀そうだ、気の毒だと思っても、思うように助けることは不可能ですから、この慈悲は貫けません。ですから、念仏することだけが一貫した大慈悲心だと、おっしゃったことでした」。
 ぼくは長い間この段に引っかかりを感じてきました。「それはないだろう」と思い続けてきました。目の前に死にそうな人がいるのに「どれほど不憫と思っても、その人を助けとげることはできないのだから、念仏することこそが本当の慈悲というものだ」と言うのです。これは一体何だろう。ここで「念仏まうす」というのはどういうことだろうか。「いそぎ仏になりて」というのはどういうことだろうか。いろんな疑念が湧き出してきて、「それはないんじゃないの」と思ってしまうのです。
 きっとこのことばには表面から受ける印象とは違う何かが隠されているに違いありません。そしてそれを解き明かすことが、「こんな自分が生きていていいのか」という問いに対する答えを見つけることだと思うのです。

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