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7月25日(月) [矛盾について(その356)]

 ぼくらは、その気にさえなれば、気の毒な方に「であること」の幸せを差し上げることはできます。暖かい着物と、安らかに眠れる住居と、おいしい食べ物を差し上げることはできます。それはすべてを失くされた方にとってどんなに嬉しいことでしょう、どんなに大きな幸せでしょう。でもその方の胸に「このまま生きていていいのか」という棘が刺さっていたら…。暖かい着物、安らかな眠り、おいしい食べ物はもちろん有難いし嬉しいでしょう。でも、その喜びにはどこか陰りがあります。腹の底から喜べない。「があること」の幸せが欠けているからです。
 「であること」とは、その方がどんな状態にあるかを指し、「があること」とは、その方がこの世に存在していることを指します。
 もう一度言います、ぼくらはすべてをなくされた方に「であること」の幸せを差し上げることはできます。どこまでできるかの程度は人によりさまざまでも、暖かい着物を着る喜び、安らかに眠れる喜び、おいしいものを食べる喜びを差し上げることはできます。でも、「があること」の幸せを差し上げることはできません。「があること」の幸せとは「このまま生きていていい」と思える喜びですが、これを差し上げることは逆立ちしてもできません。
 しかし、どうしてでしょう。どうして「であること」の喜びは差し上げることができるのに、「があること」の喜びを差し上げることができないのでしょう。それは、「であること」の喜びは自分で調達できますが、「があること」の喜びばかりは自分で調達することができないからです。自分で調達することができないものをひとさまに差し上げることはできません。

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