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7月28日(木) [矛盾について(その359)]

 ではどうするべきか。津波の中でわが子の手を放してしまったばかりに自分だけ助かり「生き残ってしまった」と悲しむ母親に何をしてあげられるのか。
 親鸞は「念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益する」べきだと言いますが、これはどういうことでしょう。このことばは、それにつづく「今生に、いかにいとをし、不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ」と対になっていますから、「この世」では何もしてあげられないから、念仏することによって「あの世」で仏となってから思う存分助けてあげましょうと読めます。でも、そうだとしますと、残念ながらぼくには素直に頷くことができません。
 「念仏して、いそぎ仏になりて」ということばの字面から受ける印象とは異なるメッセージを聞きたいのです。
 親鸞は「南無阿弥陀仏」という不思議なことばについて、それは阿弥陀仏がぼくらに「おかえり(帰っておいで)」と招いてくださる声だと言います。ぼくらが阿弥陀仏に向かって「お助けください」とお願いするのではなくて、阿弥陀仏がぼくらに「そのまま帰っておいで」と呼びかけてくださる声なのだと。親鸞は、その声が届いた瞬間を「遇ひがたくしていま遇うことをえたり、聞きがたくしてすでに聞くことをえたり」と表現し、ここには天に踊り地に躍る喜びがあると言います。そしてその喜びはこころの中に留まっていることはできず、おのずと外にあふれ出ると。
 「おかえり」の声に「はい、ただいま」と応答する、それが「念仏する」ということです。

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