SSブログ
矛盾について(その373) ブログトップ

8月11日(木) [矛盾について(その373)]

 感情や意思はもともと「AかAでないか」が割り切れないようにできているということでした。しかし、何度も言いますように、事実を報告するときに「Aかつ(Aではない)」とやりますと、即刻退場を命じられます。
 矛盾はぼくらの感情表出や意思表明の中に生まれますが、事実を報告する際に矛盾があってはならないということです。感情表出や意思表明には矛盾が満ち満ちています。でも、事実について報告するときに矛盾があってはいけないのです。矛盾律とは、感情表出や意思表明に矛盾があってはいけないということではなく、事実を報告するときに矛盾を犯してはいけないということです。
 「生きる」と「見る」の区別を使いますと、矛盾はぼくらが「生きている」ところで生まれますが、ぼくらが「見ている」ところで生じてはいけないということです。ぼくらは自然現象を「見る」ことはできますが「生きる」ことはできません。ですから、自然現象について矛盾は存在の余地がありません。ぼくらは自然現象を「見る」しかなく、そして「見る」ところで矛盾があってはいけないからです。大地震がぼくらにとってどれほどひどい災厄であったとしても、それ自身が矛盾であるわけではありません。一方、感情表出や意思表明は、それをぼくらがいま「生きている」のですから、それ自体に矛盾が孕まれています。
 「見る」ことも「生きる」ことの一部じゃないかという疑問が出るかもしれませんが、「何々を生きる」と「何々を見る」というように並べますと、そこにはおのずとニュアンスの違いが感じられます。「教師業を生きる」などと言いますと、その喜びも悲しみもひっくるめて、自らその世界にどっぷり浸るというイメージです。それに対して「教師業を見る」となりますと、ルポライターが教師生活のありのままの姿を冷静に記述するというイメージでしょうか。

矛盾について(その373) ブログトップ