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矛盾について(その374) ブログトップ

8月12日(金) [矛盾について(その374)]

 事情で更新が遅れました。
 「生きる」と「見る」でした。「生きる」とき、ぼくらはその内にいますが、「見る」とき、ぼくらはその外にいます。
 こう言っても同じです。「生きる」とき、ぼくらと生きることは一体ですが、「見る」とき、ぼくらと見ているものははっきり分けられていなければなりません。ぼくが「縁起を生きる」とき、ぼくは縁起の内にいて、ぼくと縁起を切り離すことはできません。縁起とは、くだいて言いますと「つながり」のことですから、ぼく自身が「つながり」の中にあるということです。一方、「縁起を見る」とき、ぼくは縁起の外にいなければなりません。「つながり」から切り離されていないと「つながり」を見ることはできません。「縁起を生きる」とは、自ら「つながり」を喜ぶことに他なりませんが、「縁起を見る」とは、ひとりポツンと取り残されて、みんながつながりあっているのを寂しく眺めることです。
 さて、もう一度確認しておきますと、矛盾はぼくらが「生きる」ところで生まれますが、ぼくらが「見る」ところで生まれてはいけないということでした。矛盾律は「生きる」ときのルールではなく、「見る」ときのルールなのです。何かを「見る」とき、その何かはAであるか、それともAではないかのどちらかでなければなりません。そうでなければ、見ている世界がもう何が何やらわけの分からない混沌になってしまうからです。ところが、何かを「生きる」ときは、その何かが「Aかつ(Aではない)」ことがしばしば起こります。それを矛盾だからといって即刻退場を命じることはできません。いや、退場を命じてはいけないのです。そこに真実があるのですから。

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