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8月21日(日) [矛盾について(その383)]

 前に大津波をかいくぐって奇跡的に助けられたひとが「あの人が死んだのに、自分は生き残ってしまった」と自責の念に苦しむことを考えました。このひとは欲望と理性の葛藤に苦しんでいるわけではありません。自分の内から出てくる二つの声の倫理的葛藤に苦しんでいるのではありません。
 一方では「助かってよかった」と心底思い、でも他方で「あの人が死んだのに、自分が生き残っていいのか」と苦しんでいるのです。「助かってよかった」と思いながら、そのように思うのは間違っているではないかと問いかけているのです。間違っているのではないかと思うのは、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という不思議な声が聞こえるからです。
 欲望はもちろんのこと、理性も不可能なことを命じるわけではありません。ぼくらの内から出てくる願いは、どれほど困難であるとしても、決して不可能なことではありません。でも、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という願いは、これ以上の真実はないにもかかわらず、ぼくらには逆立ちしても不可能な願いです。とすれば、これは内からではなく、外からやってきたと考えるしかありません。
 賢治にも外からこの願いが届いたはずです。彼の場合は『法華経』からでしょう(彼が熱烈な法華経信者だったことはよく知られています)が、では『法華経』の著者はどうか。釈迦からでしょうか。では釈迦は?かくしてこのメッセージ(願い)のもとをたずねる旅はどこまでも続きますが、その発信源に阿弥陀仏という形象を与えたのが浄土教だと言えるのではないでしょうか。

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