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8月30日(火) [矛盾について(その392)]

 互いに憎しみあい、争いあいながら、憎しみのない、争いのない世界を願わざるを得ないということを見てきました。
 「厭離穢土、欣求浄土」。これは憎しみや争いのない世界を乞い願うということですが、実は乞い願われているのです。あるいはこう言うべきでしょうか、乞い願うことができるのは、乞い願われているからだと。金子大栄氏は、月を見るとき、われらが月を見ているには違いないが、しかし同時にわれらは月に見られていると言います。同じように、われらが切実に願っているには違いないが、しかし同時にわれらは切実に願われているのです。
 そしてどちらがより根源的かと言えば、月に見られていることです。なぜなら、月に見られている(照らされている)から、月を見ることができるのです。月の光がわれらに届いているから、そこに月があることが分かり、それを見ることができるのです。同じように、願われているから、願うことができるのです。ぼくらはどんなことでも願うことはできるでしょう。とても実現しそうにないことでも願うことはできます。でも、それを切実に願い続けることができるかどうか、これが問題です。
 ぼくは大学の教職課程の講座を受け持っていますが、受講生たちは一応教職につきたいという希望をもっています。「一応」というのは、実際に教師になるのは依然としてかなり狭い門だからです。現役で合格するのは至難のわざで、非常勤講師をしながら何度もチャレンジしてようやくなれるかどうかというのが実情です。「どうしても教師になりたい」と思い続けることができるかどうか、これが決め手となります。そして「どうしても教師になりたい」と思い続けることができるのは、そう願われていると感じるからです。

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