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8月31日(水) [矛盾について(その393)]

 教師になりたいと願い続けることができるのは、どこかでそう願われていると感じるからだと述べました。
 ルターやカルヴァンはこの世の職業をCalling、つまり「神からの呼びかけ」だと説きました(職業召命説と言います)。自分が願っているかに見えて、実は神が願っているのだということでしょう。「どうしても教師になりたい」と思うのは、実はそうなるように呼びかけられているのです。
 天命とか使命ということばもそういう意味合いでしょうが、それにつけて思いあわされるのが親鸞の「帰命は本願招喚の勅命なり」ということばです。「南無阿弥陀仏」の「南無」とは「帰命」の意味で、「帰命」とは「本願招喚の勅命」、つまりは「本願の呼びかけ」だと言うのです。
 「命」を辞書で引いてみますと、「いのち」とは別に「仰せ、命令」という意味があることが分かります。命とは、もともとは「みことのり」の意で、王の命令を人民に伝達して従わしめることだったのです。これは示唆するところが大きい。これまでは帰命とはこちらから仏に願うことだとされてきたのですが、実は仏の仰せに従うこととされるのです。
 仰せに従うということになりますと、まず仰せがあるわけです。このように帰命が仰せに従うことだということがはっきりしますと、帰命は願いであると言われてきたことも、われらが勝手に願うのではなく、われらが願うその底で実は願われているのだと了解できます。願われているからこそ、願うことができるのだと。

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