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矛盾について(その394) ブログトップ

9月1日(木) [矛盾について(その394)]

 前に、「ありがとう」という、しみじみとした、ぼくらにとってきわめて当たり前のことばでありながら、よくよく考えれば実にしみじみとしたことばについて考えました。で、ちょっと要点を振り返っておきますと、「ありがとう」というのは、基本的にお互いさまなんだと言いました。
 お互いさまというのは、つまり、して上げるから、してもらう、してもらうから、して上げるという、そういうお互いさまじゃなくて、それが普通のお互いさまですが、そういう意味じゃなくて、こんな自分があなたに親切をしてもらってありがたいと思うと同時に、こんな自分があなたに親切をして差し上げられてありがたいという、そういう意味で「ありがとう」というのはお互いさまだということです。
 ありがとうと言われた方が感動してしまう、涙ぐんでしまうことがあるというのは、こんな自分があなたに親切をして差し上げられた、それがありがたいという、その思いがあるからこそだと思うわけですが、この「ありがとう」は今回取り上げようと思う「すみません」と切っても切り離せません。
 ぼくらは「ありがとう」というところを「すみません」と言うことよくありますね。「ありがとう」の意味で「すみません」と言う。別にあやまっているんじゃなくて、感謝して「すみません」と言う。これはどういうことでしょう。これは「ありがとう」と「すみません」とは切っても切り離せないということをはっきり示していると思うわけです。
 さて、ぼくら日常の生活の中で、一日に何度「すみません」と言い「ありがとう」と言うでしょう。この「すみません」や「ありがとう」の中にこそ宗教があり、仏教があると思うのですが、いかがでしょう。

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