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矛盾について(その398) ブログトップ

9月5日(月) [矛盾について(その398)]

 どちらかを選べるときに善を選ぶ、理性の命令に従う、これがカント倫理学の根本でした。それに対して「すみません」の方は、理性の命令にそむいちゃってから、ああ、またそむいちゃった、ああ、またやっちゃったというわけですから、何か劣るように思います。しかし、考えてみますと、この「すみません」の方、つまり煩悩の方は、普通の道徳よりもはるかに優位にあります。上にあります。
 どうしてかと言いますと、嘘をつくということを例に上げますと、たとえ嘘をつかなくても、嘘をつきたいなと思っただけで、ああ、思っちゃった、嘘をついたら助かるなと心の中で思っちゃった。それだけで「すみません」と頭を下げるのが煩悩です。カント倫理学では、嘘をついたら得だなと思ったとしても、それをねじ伏せて、理性の命令に従えば、それは立派な善であるわけです。
 だけど、たとえ嘘をつかなくても嘘をつきたいなと思っただけで、「ああ、おれってやつは」て思ってしまう、それが「すみません」ですから、これは普通の道徳よりもはるかに上、というのは変かもしれませんが、大きいと言えるんじゃないかなという気がするんです。
 ちょっとごちゃごちゃした話になりましたが、「すみません」というのはそういうものだとして、それと「ありがとう」との関係を考えてみたい。「ありがとう」には、その中に必ず「すみません」が含まれている、というのがここで言いたいことなんです。「ありがとう」の中に「すみません」があるからこそ、ぼくらは「ありがとう」の代わりに「すみません」と言うんじゃないでしょうか。
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