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9月6日(火) [矛盾について(その399)]

 「ありがとう」の中に「すみません」があるからこそ、ぼくらは「ありがとう」の代わりに「すみません」と言うと述べました。どういうことかといいますと、「ありがとう」はこんな自分が親切していただいて「ありがとう」というように使うわけです。ここには「こんな自分」というのが入っています。「こんな自分」が、何の値打ちもないこんなわたしがあなたに親切していただくなんて、「有り難い」、滅多にない、という意味ですね。
 「すみません」の一番底にあるのは、こんなわたしが生きていて「すみません」ということです。三平の「どうもすみません」がおかしくて仕方がないのは、そこに、ただのおかしみだけじゃなくて、こんな自分が生きていてすみませんが滲み出ているからです。だけど、いや、だからこそ、生きていてありがとう、こんな自分が生きていてありがとうでもあります。この二つはもう切り離しがたい。
 さらに考えますと、これまで何度も取り上げました善導さん、あの唐の善導大師に「機の深信」と「法の深信」というのがありました。二種深信ですが、ちょっと復習しますと、機の深信というのは、「こんな罪深い自分が救われるはずがない」ということでした。機というのは自分のことです。こんな自分が弥陀の本願を受け取る資格なんか全くないんだというのが機の深信でしたね。これつまり「すみません」、こんな人間が生きていてすみません、じゃないでしょうか。
 一方、法の深信は、こんな罪深い自分を救っていただける、というのが法の深信でした。弥陀の本願は、罪深い人間のためにある、というのが法の深信でしたね。それを深く信じる。これまさに「ありがとう」です。こんな人間が生きていていいいなんて、こんなにありがたいことはない。何がありがたいと言って、この自分が生きている、いまここに生きていることほどありがたいことはない。これつまり法の深信ではないでしょうか。
 こんな自分が生きていて「すみません」と、こんな自分が生きていて「ありがとう」は切っても切れないのです。

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