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矛盾について(その414) ブログトップ

9月21日(水) [矛盾について(その414)]

 前にも何度か登場しましたが、善導という中国のお坊さんは「南無阿弥陀仏」についてこう述べています。「南無というのは帰命、つまり如来の仰せに従うということで、また往生を願うということです。阿弥陀仏というのは、つまりそのための行なのです」と。当時、「南無阿弥陀仏」と称えるのは、ただ「阿弥陀仏に助けてほしい」「浄土に往生したい」と願うだけで何も修行が伴わないじゃないかという批判があったようです。それに対して善導が、「南無」は帰命し、発願するということだが、「(南無)阿弥陀仏」と称えることはれっきとした行だから、願と行がそろっていて、必ず往生できるのですと答えているのです。
 確かに「南無阿弥陀仏」と称えるだけというのは普通の感覚ではこれを行とは言わないでしょう。難しい経典を読んだり、坐禅をするのが行です。
 これに関連して金子大栄氏は、おもしろい話をしてくれます。禅寺で坐禅の修行をしてきた人たちが金子氏に浄土真宗には修行はないのですかと尋ねたのですが、それに対する彼の答えです。「あなたたちが山にはいって修行をしてこられたのは、山という一つの道場があったからである。人間の生活をしばらく離れて、山という道場で修行をしてこられたのだが、真宗念仏者にとっては、そういう道場はない。しいていうならば、与えられたる生活がすなわち道場です。朝起きて夜寝るまで、欲を起こしたり、腹をたてたりしているのですが、その間に、男の人は職場に行って働かなければならないし、女の人ならば、台所の仕事やふき掃除もしなければならない。しかし、そういうところが道場であり、それが修行の場所なのです」。
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