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9月24日(土) [矛盾について(その417)]

 金子氏は生死の問題と人生の問題とは違うと言います。生死の問題とは「いかに死ぬか」であり、人生の問題とは「いかに生きるか」です。
 ぼく自身の若い頃を思い起こしますと、やはり生死の問題が大きなウエイトを占めていたような気がします。哲学の道を選んだのは「いかに死ぬか」というテーマがあったからです。どうすれば「いつ死んでもよい」と思えるようになるか、これを探求したかった。昔なら出家して仏道に入るということでしょう。釈迦をはじめ、高僧と言われる人たちはみんな生死の問題を抱えて出家したのです。出家するということは、自分一個の問題のために、係累を断ち切ることに他なりません。
 でも若かったぼくの中には同時にもう一つの関心が渦巻いていました。自分ひとりが「いつ死んでもよい」と思えるようになったとしても、周りのみんながさまざまな悩みに苦しんでいるとすれば、何の意味があるのかという疑問です。当時の社会状況がぼくに影を落としていました。全共闘運動です。前にどこかで書きましたが、あの渦中にあった若者たちのこころの中で「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という賢治のことばが響いていたように思います。
 ぼくの中で宗教の季節と政治の季節が交替しました。あるときは親鸞に沈潜し、あるときはマルクスを貪り読みました。「いかに死ぬか」はぼく個人の問題、「いかに生きるか」はぼくを含めた社会全体の問題として、両者が噛み合っていなかったのです。浄土思想の言葉を借りますと、「いかに死ぬか」が往相で、「いかに生きるか」が還相ですが、往相と還相がひとつに繋がっていなかったのです。

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