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矛盾について(その418) ブログトップ

9月25日(日) [矛盾について(その418)]

 ぼく一人が「いかに死ぬか」と、みんなとともに「いかに生きるか」とが一つに繋がっていなかった。
 ポイントは「煩悩具足の凡夫」にあるようです。若い頃、親鸞を読み、これがキーワードであることは分かっても、実感として受け止めていたとは思えません。学生時代に読んだ『教行信証』を取り出してみますと、巻頭余白に書き込みがしてあります。「われいまかへるともまた死せん、住すともまた死せん、ゆくともまた死せん。一種として死をまぬがれざれば、われやすくこの道をたづねてさきにむかひてしかもゆかん。すでにこの道ありかならず度すべし」という二河白道の一節です。「なるほどなあ」と、当時の心境を納得した思いでした。やはり生死の問題、「いかに死ぬか」の問題をベースにして親鸞を読んでいたのです。
 金子氏も指摘していますように、親鸞と道元を分ける根本は「かなしきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚(往生が約束されたもの)の数に入ることを喜ばず、真証の証にちかづくことをたのしまず。はづべしいたむべし」(『教行信証』)という述懐です。これは親鸞にとって本質的であっても、道元には無縁のものです。道元にとって愛欲や名利といったことがらは生死の問題を追求していく上での障害でしかありませんから、それを「はづべしいたむべし」と言っている暇があったら、はやくそれを乗り越えなければなりません。「いかに死ぬか」が大事な道元には、愛欲や名利にかかずらっている暇はないのです。

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