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矛盾について(その419) ブログトップ

9月26日(月) [矛盾について(その419)]

 「いかに死ぬか」と「いかに生きるか」。
 親鸞としては、本願に「遇ひがたくしていま遇ふことえ」たにもかかわらず、愛欲や名利に迷っている自分をじっと見つめなければなりません。一方で本願を喜びながら、同時に自分の中に巣くう愛欲や名利を悲しむ。本願に遇うことで死ぬ用意はできても、それで人生が終ったわけではありません。毎日の生活が続くのです。そしてその中で愛欲や名利に迷うのです。
 先ほどの賢治のことば「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」に胸が熱くなり「ありがたい」という思いがあふれるのですが、にもかかわらす、実際には自分だけの幸福に血道を上げていることに「あいすみません」と頭が下がるのです。
 「こんな煩悩具足の凡夫が救われるはずがない」と悲しみ、同時に「こんな煩悩具足の凡夫を救っていただける」と喜ぶ。「あいすみません」と「ありがたい」とが同居しているのです。「あいすみません」と頭が下がるから「ありがたい」のですし、「ありがたい」から「あいすみません」と頭が下がるのです。
 そういえば、ぼくらは「ありがとう」と言うところを「すみません」と言うことが多いですね。ということは、「ありがとう」は、その底で「すみません」であり、「すみません」は、その底で「ありがとう」なのです。


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