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9月27日(火) [矛盾について(その420)]

 再び『歎異抄』第4章の聖道の慈悲と浄土の慈悲について。
 聖道の慈悲にはどこか「してあげる」という意識があります。金子氏はこんな話を持ち出します、「昔、お金持ちが年の暮れになりますと、餅をうんとついて、ある貧乏な部落へ行って施される。はじめの一年は大変よろこんでいたそうです。二年目もよろこんだのですが、三年目あたりになると、『今年ももう来る時分じゃないか』ということになり、来ないと『今年はどうしたんだ』となるのだそうです。だいたい、人に物を施すというような根性が間違っているのでしょう」と。
 もらう方が「今年はどうしたんだ」となるのは「施される」ことが当たり前になってしまったからで、そもそも「施す-施される」という関係そのものに問題があるということでしょう。これは東日本大震災に対する義援金にも関係することで、真剣に考えなければなりません。義援金を巡るニュースで、30万円だかのお金をもらった被災者が「これだけ?」と言っている場面があり、いくばくかのお金を拠出したぼくとしては複雑な気持ちになりました。
 「施す-施される」という関係に問題があるからといって、被災された人たちに手を差しのべること自体が否定されるはずがありません。では浄土の慈悲はどんな形を取るのでしょう。ここでもう一度「お互いさま」について考えてみましょう。誰かに親切をして「ありがとう」と感謝されたとき、「お互いさまです」と答えます。これは普通、今はわたしがあなたに親切をしてあげたが、また別のときには、あなたから親切をしてもらうことになるのだからお互いさま、ということです。「情けはひとのためならず」という意味で使っているのです。
 しかし「お互いさま」にはもうひとつ深い意味がありました。

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