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10月2日(日) [矛盾について(その425)]

 さて貪りながら、それを後ろめたく思うとき、こんな自分で「あいすみません」と恥じ入ります。恥じ入らなければならないのは、自分が貪るからです。そこから、お互い貪りあわないような世界はないものかという願いがおのずと頭をもたげます。その願いは手前勝手な願いではなく、何か人間としての純粋な願いのように感じます。そしてそれは自分が願うより前に、もうすでに願われていると感じる。いや、もうすでに願われているから、自分も願うことができるのだと気づくのです。ぼくらが何かを本気で願うとき、実はそれが願われていると感じます。
 そしてそう感じたら、もう願いはかなえられたに等しい。
 これが、割り切れないと悲しみながら、割り切れないままでいいのだと喜ぶことです。割り切れないからこそ妙味があるのだと思うのです。『歎異抄』第7章に「念仏者は無碍の一道なり」とありますが、この「無碍の一道」ということばについて金子氏は次のように言います。「何様の天下になろうと、争いが絶えなかろうと、平和であろうと、寒かろうと、暑かろうと、どうなってもよいんだ、人間世界は、こうなったら悪いとか、こうしたら善いとかいってみたって、どうにもならん世の中なんだから」という気持ちになるのがほんとうの無碍の一道だと。本人も言うように、ずいぶん「思いきった言葉」です。これを何気なく読みますと、自暴自棄というか、捨て鉢というか、人生を投げてしまったような観があります。
 しかし、人生は割り切れないものとあきらめるのは、自暴自棄や捨て鉢とは全く異なります。

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