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10月3日(月) [矛盾について(その426)]

 金子氏は、人生は割り切れないものとあきらめるのは、自暴自棄や捨て鉢とは全く異なると言います。争いがあろうと平和であろうと、そんなことはどうでもいいとあきらめながら、しかも平和を希求し、人生の禍福なんてどうでもいいと思いながら、しかも真剣に幸福を求めるのだというのです。しかし、どうなってもいいと思うのに、どうして人生を投げてしまわず、平和を求め幸福を求めるのか。
 「どうなってもいい」には二種類あるようです。
 普通の「どうなってもいい」は、希望がすべて断ち切られ、もうどうとでもなれと捨て鉢になることで、これは説明がいらないでしょう。問題はもうひとつの「どうなってもいい」で、これが分かりにくい。こちらは、希望がかなおうが、かなうまいが「どうなってもいい」と思いつつ、しかし希望を持ち続けるのです。幸福でありたいと願ってきたのに不幸になってしまったら、それに絶望してやけっぱちになるのが普通でしょう。でも、不幸のどん底に陥っても、「それでもいい」と思いつつ、なおかつ幸福になることを望み続けるという立場があるのです。
 それが、「願われている」ことに気づくことです。自分が何かを一生懸命願っている、その底で、実はそれがすでに「願われている」と感じる。そのとき、願いがかなおうが、かなうまいが「どうなってもいい」と思います。実際に願いがかなえば嬉しいに決まっていますが、願いがかなわなくても「それでもいい」と思う。なぜなら、それが「願われている」ことで、もう願いがかなえられたに等しいからです。

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