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矛盾について(その428) ブログトップ

10月5日(水) [矛盾について(その428)]

 金子氏はこう言います、「私が憶念の心というのを持っているのじゃない。憶念の心というものが、私を持っている」と。あるいは「念仏が身についてきますというと、私が念仏を申すのではなくて、念仏の心が私たちを憶念してくれるのです」と。私が仏を念じるのではなく、仏が私を念じてくださる、ということでしょう。
 私が「厭離穢土、欣求浄土」と念じるには違いないのですが、その底で、仏がすでに「浄土へ来たれ」と念じてくださっている。私が「浄土へ往きたい」と念じることができるのも、仏がすでに「浄土へ来たれ」と念じてくださっているからだということです。「帰っておいで」と念じてくださっているから、「帰りたい」と念じることができる。
 「帰りたい」と願うから「帰っておいで」と願われていることに気づくのですが、「帰っておいで」と願われているから「帰りたい」と願うことができるのです。念仏するから本願に気づくのですが、本願があるから念仏することができるのです。
 一方では、「帰りたい」と願いませんと、いつまでも「帰っておいで」と願われていることに気づかないでしょう。その意味では、「帰りたい」が先です。でも、「帰っておいで」と願われていることに気づくから、「帰りたい」と願うことができるのです。「帰っておいで」の声が聞こえないところでは、「帰りたい」と思うこともありません。その意味では、「帰っておいで」が先です。

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