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矛盾について(その435) ブログトップ

10月12日(水) [矛盾について(その435)]

 仏教はもともと「生死の問題」(「いかに死ぬか」)からスタートします。すでに一度出てきましたが、「いかに死ぬか」は個人の問題です。この問題と向き合う上では、人間の交わりは障碍でしかありません。ですから、できれば出家した方がいい。ひとり静かに死と向き合うべきです。それに対して浄土の道は、人と人との交わりの中で「愛と憎しみの問題」に向き合い、「いかに生きるか」を模索するのです。
 「生死の問題」と「愛と憎しみの問題」を並べますと、前者の方がどことなく高尚で深遠な感じがします。若かった頃のことを思い出します。ある宗教を勧誘する人物から、要するに愛が問題だと言われ、ぼくは猛然と反発していました。大事なことは死の問題をどう乗り越えるかであって、愛だの幸せだのというのは二の次三の次だと。若いぼくにとって、死こそ哲学や宗教のテーマであるべきだったのです。
 当時は実存主義の全盛期で、ぼくもハイデッガーの「死への決意性」などということばを有難がっていました。しかし年とともに感じ方も変わるものです。この間『存在と時間』を読み直したのですが、どうにも死ということばのわざとらしさが鼻につき、むしろヴィドゲンシュタインのような、死の問題などとは無縁と思われる哲学者の方が、死について深く考えているような気がしたものです。
 さて、「愛と憎しみの問題」とは要するに悲しみの問題です。親鸞の「かなしきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、…。はづべしいたむべし」にあらわれている悲しみです。

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