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10月14日(金) [矛盾について(その437)]

 「きょう」が終わり、目覚めると「あした」がある、と言いましたが、目覚めたときにあるのは、実は「あした」ではなく、またもや「きょう」です。次の「きょう」です。では「あした」はないのでしょうか。とんでもない。ぼくらは「あした」がなければ生きていけません。「きょう」に欠如がある以上、それを「あした」埋めたいと願わざるをえないからです。このように「あした」があるのは確かですが、「きょう」が終って、それに続いて「あした」があるというふうにはなっていないこともまた確かです。「きょう」が終って、やってくるのは次の「きょう」でしかありません。
 どうやら「あした」と「きょう」とは、その時間のありようが全く異なっているようです。ぼくらは「きのう」と「きょう」と「あした」とが同じ時間軸上に並んでいるというイメージを持っていますが、このイメージに根本的な問題があるのではないでしょうか。そして、「前の世」と「この世」と「あの世」も同じ平面上につながっていて、「前の世」から「この世」へ、さらに「あの世」へと連続的に移っていくというイメージがありますが、このイメージにも根本的な錯誤があるようです。
 では「あの世」なんてないのでしょうか。
 「きょう」があるのと同じ意味で「あした」があるとは言えないように、「この世」があるのと同じ意味で「あの世」があると言うことはできません。でも「あした」があると思わなければ「きょう」を安心して生きることができないように、「あの世」があると思わなければ「この世」を安心して生きることができません。ですから「あした」があるのと同じ資格で「あの世」もあるのではないでしょうか。

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