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10月16日(日) [矛盾について(その439)]

 阿弥陀仏の実在の証明。
 しかし、多分存在すると思うだけでいいではないか、何も理詰めに証明しなくても、存在するだろうと思えれば十分ではないかと言われるかもしれません。でも金子氏としては、阿弥陀仏の実在が確かではなかったら、本願も念仏も意味を持たなくなると思えた。本願とは阿弥陀仏からの呼びかけ(「帰っておいで」)であり、念仏とはそれに対する応答(「ただいま」)ですから、どちらにとっても阿弥陀仏の実在が要となります。もし阿弥陀仏が実在しないのであれば、その呼びかけがあるはずがなく、したがって応答もナンセンスになります。何をおいてもまず阿弥陀仏の実在を証明しなければ、となるのはこのような事情があるのです。
 ふと思い出したことがあります、マールンクヤの問いです。
 釈迦の時代にマールンクヤという哲学青年が「世界には果てがあるか、ないか」「世界には始まりがあるか、ないか」「死後の世界はあるか、ないか」などという形而上学的な問いを次々と釈迦に投げかけるのですが、釈迦はそれに対して無記(黙して語らず)を通します。それを不満に思いしつこく問いかけるマールンクヤに対して釈迦はついにこう答えるのです。「ある人が毒矢に射られて苦しんでいるとしよう。かれの親友、親族などはかれのために医者を迎えにやるであろう。しかし矢に当たったその当人が『わたしを射た者が王族であるか、バラモンであるか、庶民であるか、奴隷であるかを知らない間は、この矢を抜き取ってはならない。またその者の姓や名を知らない間は、抜き取ってはならない。…』と語ったとする。それでは、この人は、こういうことを知りえないから、やがて死んでしまうであろう」と。

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