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矛盾について(その441) ブログトップ

10月18日(火) [矛盾について(その441)]

 「帰っておいで」の呼びかけには、その声の主を確認することが必要ではないか、ということでした。実際、ある会合でこんな質問が出たことがあります、もし、その呼びかけが悪魔の囁きだったらどうします、と。
 親鸞ならこう答えます、「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」と。法然聖人がとんだくわせもので、念仏して往生できるというのは悪魔の誘惑であったとしても、べつにかまわない、と言うのです。あるいは阿弥陀仏が悪魔なら、その悪魔についていこうと言うのです。
 驚くべき発言に見えますが、これは天地がひっくり返っても揺るがない確信のあらわれです。「帰っておいで」の声が骨身に沁み、「ああ、このまま生きていていいんだ」という喜びが湧き上がってきたのです。そのとき「ただいま」という応答以上に何がいるというのでしょう、もうそれだけで十分ではありませんか。
 金子氏が「阿弥陀仏の実在を証明するものは、阿弥陀仏のほかはない。だから阿弥陀仏は、われらの念仏となりて、その実在を証明せられるのである。したがって阿弥陀仏の実在を証明するものは、念仏のほかにはないのであろう」と言うのは、こういうことでしょう。

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