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10月28日(金) [矛盾について(その451)]

 浄土の教えにとって光と闇のメタファーは強力です。そもそも阿弥陀仏とは無量の光の仏(尽十方無碍光如来)なのです。弥陀の光明に照らされることは摂取不捨つまり救われることを意味します。反対に闇に閉ざされることは無明の中に置き去りにされることです。さて金子氏は光と闇についてこんなふうに言います、「光は闇を明るく照らし破るものであるが、同時に闇を知らせてくれる。光が強くなったということは、その闇がますます深くなったということである」と。
 これは、そのすぐ前に「宗教的境地は、つねに反宗教の生活を照らしています。宗教的境地に気づいた人は宗教のない生活を知ることになるのです」とあることから分かりますように、宗教的境地という光があるから、自分の中の反宗教の生活という闇が浮かび上がるのだということです。人が宗教的境地に入ると、それで世界が一変すると言われます。いままでの闇の世界から光の世界へと。それはそうに違いありませんが、でもだからと言って、闇の世界が消えてしまうわけではありません。むしろ闇が闇としてくっきり浮かび上がるのです。
 「そのまま生きていていい」の声が届くことが宗教的境地に入ることでした。この声は強烈な光となって「このまま生きていていいのか」と煩い悩んできた闇の世界を破ってくれます。それは確かに劇的な変化です、闇の中に光が差し込んだのですから。しかし、それによってこれまでの闇の生活が消えてしまうのはありません、いままでと同じように、煩悩にまみれながらの生活が続くのです。でも、普通に考えれば、闇の中に光が差し込むことにより、闇は消えるのではないでしょうか。闇の世界が光の世界に変わるのではないでしょうか。

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